逃げ道は、ファンが考えた通りであの歴史書に書いてあったことは本当だったようだ。
その井戸を見つけると、ファンは兄と共に下りてみた。ここから本当に、カントの中枢へと通じるのだろうか?
そう思ったファンはメガネを少しずらして見た。それから一度うなずくとおもむろに横に走った狭い道を進み始めた。
兄はファンが何の説明もせずにここに来たというのに、何も言わず妹の後ろをついてくる。疑いもせずに。
1年前、帰らずの洞窟を案内した時はディルに随分と疑われたのに、この兄は自分のことをまったく疑わないのだろうか?
ファンは大人しく地面を照らす兄の顔をみつめた。
「なんだ、暗闇が怖いのか?」
「そんなわけないでしょ!」
ニヤリと不適な笑みを浮かべる兄に、ファンは頬をふくらませる。
何回か道が分かれていたのに、自分の示す方向をまるで疑わず付いてくる兄が不思議でならなかった。
──力のことなど一度も言ってないのに、兄はまるでファンの力を知っているかのように信じてくれる。
ファンは自分の目が人と違うことをこの世界ではまだ誰にも明かしていない。
もちろん一番親しくしているアイリーンにさえである。
普通ならこの道で本当に大丈夫なのか?と聞くのが当然なのに。
現に、あの時はディルに何度も聞かれた。
「っと、押さないでよ」
考え事をしながら歩いていたからだろうか? 兄に背中を押され、ファンはこけそうになった。
「急いで行けと言っているだろう」
「しょうがないでしょ。狭いんだから」
「チビのお前にはちょうどいいサイズだろうに」
「なんですって?!」
そんな会話をしながら進んでいると、目的地に着いたようである。
ファンはメガネを大事そうにポケットに仕舞うと、再度確認し、壁を指差した。
「ここよ。だけど・・・・・・牢って番人がいるんじゃない?」
道案内はできてもまったく戦うことには自信のないファンはおずおずと兄を見上げた。
「大丈夫だ。動くものの気配はない。どいてろ」
兄は意味ありげにファンに目線をくれると、ここと指し示した場所に思いっきり蹴りを食らわせた。
「ちょっとぉ! そんな大きい音・・・・・・」
いきなりの兄の行動にファンは目をむいたが視線の先に捉えた人物に気づき、そのまま固まった。
崩れ落ちそうな体を繋がれた鎖でようやっと支えた姿。
肌蹴られた服の間から見えるいくつもの鞭打たれた後。
この牢には父以外の姿はなく、よほどの重罪を犯したものだけが繋がれる牢なのだと思った。
「父、さん・・・・・・」
檻に隔てられた人物に近づきファンは声を落とした。
途端、反応のなかった身体はピクリと動き、微かな息が漏れた。
「フロー」
フローフル、そう言おうとしたのは明らかだったが、ファンは父が生きているのを知ってほっとした。
──ガツン!
またも派手な音がしてファンはびくっと肩を震わせた。
兄が無理に牢の鍵を壊したのだ。
「兄さん! あんまり大きな音立てたら気づかれちゃうじゃない」
「ちっ。それよりも、父さんの鎖をはずせ。オレはちょっと見てくる」
軽く舌打ちすると、外の様子を探るため、兄は来た方向と逆にある階段に近づいた。
「やばい、早くしろ! 誰か来た」
しばらくすると牢の外で複数の足音が聞こえだし、兄が血相を変えて戻ってきた。
「急がなきゃ」
やっと外れた鎖を静かに降ろすと、崩れ落ちそうな父の身体を支える。
腕を片方ずつ肩に担ぎ、2人は急いでついさっき破壊した壁の残骸を乗り越えた。
と、同時にガッと音がし、牢の扉が開かれたのだろう。複数の足音が上から聞こえ、それは階段をおり、だんだん大きくなっていった。
「もう、逃げられんぞ」
冷たく響くその声に、ファンは心当たりの顔を思い浮かべながら振り返った。
地下の道から地上へと出ると、ディルは打ち合わせ通りの場所へ次々と火を放った。
その際周りの気配を伺ったが、どうやら今回は女神の手は回っていないらしい。
未来を見るというサライシャーマでも、予想出来ないことはあるのかとディルはほっと息をついた。
それから影である黒装束と分かれ、ガーラを連れて領主の住む建物へ向かった。
黒装束が城門を開け、味方を中に引きこむのにあわせ、ディルはその建物に入る。
そして、混乱に乗じてサライシャーマを暗殺しようと思っているのだ。
そうしなければこちらの策はすべて見通され、この戦いに勝利することは決してないからだ。
領主の建物は城壁に囲まれたカントの中央にあった。以前捕らえられていたムントの首都にある城と造りはよく似ていた。
たぶんあれを少し小さくしたようなものだろう。
急いで庭を駆けぬけようと辺りを探っていると、運の悪いことに後ろから人の気配を感じた。
──まずい。
咄嗟に隠れようとしたが、気づくのが遅かった。
「ほぅ。どこのねずみが入り込んだかと思えば、久しぶりですな。イルザスの末王子よ」
それは忘れもしない、自分を捕らえたムントの王子アレイサーであった。
「ちっ」
ディルは舌打ちすると、剣を抜きアレイサーに向き直ったアレイサーの後ろから現れた女に、ディルが気づいたのは。
「そいつ? この前ファンと一緒に牢から逃げ出したって王子は」
「ええ。そうですよ」
「サライ、シャーマ?」
ムントの第2王子にぞんざいな口の聞き方をして、許される人物などそうはいない。
ディルは目の前の女が、それなのだと理解すると同時に口に出していた。
「ああ、イルザスでは女神の娘をサライシャーマと呼ぶんだったか。よく分かったな」
見下したような目でディルを見ながら、アレイサーは肯定した。
目的の女がこんなところにいたのか。すばやく回りに目をやる。がここで、ダメだと思ったら逃げなさい。
事前に姉に言われた言葉を思い出す。サライシャーマを殺せば、これからの戦いを見通されることはない。
それに、指揮官であるあの冷酷な王子を殺せば、戦争はおわるはずである。しかし・・・・・・彼らの周りには衛士がたくさんいた。
一矢報いることができたとしても、あれに突っ込むのは死に等しい行為だろう。
ここは・・・・・・逃げるしかない、か。
「逃げれると思っているのか?」
アレイサーの嘲笑が聞こえ、唇を噛む。
飛び出してあの男の胸に剣を突き刺したい衝動に駆られる。
しかし・・・・・・今は命を捨てる時ではない。
自分だけでなくガーラまで命を失うことになるのだから。
隙を見て逃げたディルは、走りながらだんだんとアレイサーに追い詰められていくのを感じた。
兎でも狩るかのように、逃げ場をなくし楽しんでいるのだ。
そして、アレイサーに導かれるように隅にある建物に向かった。
その建物は以前ディルが捕らえられていた牢によく似ていた。
おそらくアレイサーは、ディルが自分から再びここに入るのを嘲笑することだろう。
しかし追い詰められ行き場をなくしたディルはそれが分かっていてもどうすることもできずに扉を勢いよく開いた。
「もう、逃げられんぞ」
後ろからは冷えた男の声が残酷に響いた。
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