「お前はここにいる間、予言者イリューシャと呼ばれる。ほかの名は必要ない」
兄はいきなりファンにそう告げた。
「なにその名前」
ラシードの妹、シェーラルールに煎れてもらったお茶を飲みながらチラリとファンは兄を見た。
しかし兄はファンの憎まれ口など気にならないのだろう。ふんと鼻を鳴らすと話を続けた。
「イリューシャと言うのは、俺たち、つまり砂漠の民の中で予言者の地位にある者に代々与えられる称号。父さんに聞かなかったか?
絶対に自分で説明すると思ったが」
そう言われてファンは答えられなかった。
──そんな話聞いてない。ただちょっと力を貸すだけ。それだけだと思っていた。
それに、イリューシャ? なぜいきなり名前を変えなければならないのだろう。改名する理由がわからない。
思わずファンは口に手をあて、考え込んだ。
しかしファンの俯いた姿と、カミュールの突き離したようなものの言い方に誤解したシェーラルールは声を荒げた。
「そんな冷たい言い方、おやめください! 少しはイリューシャ様のことを考えてあげてください。
ただでさえ知り合いがいない場所に放り込まれて不安なのに、カミュール様までそのようでは、参ってしまいます」
「いいのよ。兄さんはいっつもあんな言い方だから・・・・・・私は大丈夫よ」
急に黙り込んだから、泣いているとでも思ったのかもしれないけれど大丈夫。
そうやって庇ってくれなくたって、部屋の隅で泣きながらじっとしているような女じゃない。
自分の立ち位置は自分で決める。今までだってずっとそうしてきたんだから。
おそらく、自分に気を使ってシェーラルールは兄を怒ってくれたのだろうけれど・・・・・・。
ファンは苦笑しながら彼女に大丈夫と告げる。
が、シェーラルールにはそれさえもファンを痛ましいと思わせる一因に見えたのだろう。
「イシューシャ様・・・・・・私は、私はイリューシャ様の味方でございます! ずっとお傍にお仕えしますので何も心配されなくて大丈夫ですよ」
両手を握られ力説され、ファンは逆に困ってしまい兄を見上げた。
「シェーラ、中途半端な同情ならやめておけ。イリューシャにはそんなもの必要ない。
最後までその気持ちを貫く覚悟がないなら、そんな感情は捨ててしまえ」
「そ、そんな・・・・・・」
兄の言葉を聞いてシェーラルールは黙ってしまった。
だけど、冷たく突き離したように聞こえるこの兄の言葉の方が、ファンは好きだった。
同情なんて必要ない、見える範囲だけの優しい言葉なんかいらない。
そんなものよりも、自分の本質を知り、なおかつそれを認め、一人の人間として必要としてくれる。
その上での対等な扱いをしてくれる兄の方がよほど自分のことを理解してくれていると思えるから。
「同情なんかじゃ、決してありません! 最後まで私はイリューシャ様の味方でいるつもりです」
「そうか、なら止めはしない」
シェーラルールは中途半端と言われたのがよほど悔しかったのか、再度言いなおし、今度はカミューラもそれを止めなかった。
しかし・・・・・・ファンには分かっていた。彼女は兄の言うとおり、中途半端なのだ。
なぜならば、最初に口を開いたときからずっと、彼女は自分のことをイリューシャと呼んでいるのだから。
一度として名前を聞かず、ファン個人として自分を見ていない彼女が、信頼できる味方として最後まで自分のそばにいてくれるとは思えない。
イリューシャでなくなった途端、彼女は離れていくだろう。そう思った。
しかし、それを声に出して彼女に指摘することはない。この話はもう終わりだ。
「シェーラルール、お茶が冷めてしまったわ。悪いけど新しいのをお願いできる?」
ファンは一瞬の兄の目配せにそっと頷くと、自身の世話係に向かってすまなそうに微笑んだ。
そうして、シェーラルールが広すぎる部屋からティーポットを持って出て行くのを見送った後、そっと息をついた。
「なんか・・・・・・仲良くしてもいいのかな? 彼女、素直すぎて可哀想」
可哀想、それこそがファンが彼女に対して持った感想であった。
ファンが、隠そうとしている彼女の気持ちを読み取る力があることや、本人さえも気づいていない感情までも分かってしまうことを知ったら
彼女は傷つくだろうか? こうして表面上は心を許している振りをして、その実そうでないことを知ったら・・・・・・?
「まあ、そう思うならあれが悲しまぬよう気を使ってやれ。あれでもラシードの妹だ。性格はともかく、信用だけはできる娘だ」
カミューラはそんなファンの気持ちを感じ取ったのか、苦笑しつつそう言った。
「ふーん、分かった。それにしてもこんな立派な建物があるなら、どうしてフローフルをここに隠しておかなかったの?
そうしたらムントで召喚の生贄になることもなかったでしょうに」
この建物、それにこの部屋。どう考えてもこんなものの存在をイルザスの王家が知るはずはない。
ここを見た時一番にそう思った。だからこそ、不思議だった。
ここにいる限り身の安全が保証されるはずの彼女を、なぜ簡単にサマーリィは侍女として召し上げることができたのか。
「フローフルがムントへ侍女として連れて行かれたのが3年前。その当時、彼女は正式にはイリューシャの名を持ってなかった。
まだ先代のイリューシャがご存命でな。とそれでフローフルをここに置くわけにはいかなかったのだ。
ちなみに先代が亡くなったのはお前が来る3日前」
「そう・・・・・・」
父に渡されたフローフルの形見の鏡を拭きながら、ファンは兄の説明を聞いていた。
「当面はここにいろ。父さんのせいでもしかしたら、お前の力をディルバルト殿下が気づいたかも知れないからな」
話を切り替え、兄は言った。
「それと、お前に秘密にしておくこともないから先に言っておこう。
俺たちの当面の目標はフローフルの仇を取ること。──ムントのやつらには誰に喧嘩を売ったか、たっぷりと思い知らせてやる」
ファンはその兄の言葉に何も言わずに同意を示し、うなずいた。
兄の頭の中にはもう、その計画が半分以上組みあがっているのだろう。
ムントと、砂漠の民では戦力も何もかもが違いすぎる。端から見たら兄の言うことは荒唐無稽だ。
それでも成功する。いや、父は成功させるためにファンにすべてを話した。兄はそのためにファンをこの地へ連れてきた。
おそらくファンの力をあてにして。
「私たちはその力がほしくて君を養女にしたわけじゃない。本当に君を心から気に入っているから、娘になってほしかったんだよ」
父はそう言ってくれたが、それでも少しは力がほしいと思ったのだろう。
罪悪感から顔をゆがめたち地の表情を、ファンは思い出した。
しかしファンには、そこまでほしいと思わせるだけの力が自分にあるとは思えなかった。
自分ができること、それは少しだけ人の未来を垣間見ること。言ってしまえば占い師のようなものだ。
予言者ほどの確かな力などありはしない。それに・・・・・・。
「そう不安そうな顔をするな。お前は何も考えず、お前にできることをすればいい」
いつものように自身満々に兄は言うけれど、不安でたまらない。
心から安心できる場所がほしいと思う。
だから、俺についてくれば何の問題もない、そう言いたげな不敵な笑みを浮かべる兄の姿にファンはすがってみたいと思った。
愛する妹、大事な子どもだと抱き締めてもらえる、そのために力がほしいと思った。
今よりももっと確かな、もっとはっきりとした力が。
「無理はするな。どうせ俺からみたらお前なんて予言者イリューシャと呼ぶのもおこがましい、ただのチビメガネだからな」
「なっ!」
せっかく助けようと思ったのに・・・・・・。まじめに、力がほしいと初めて望んだのに!
兄の最後のひと言でまた、ファンは膨れっつらを見せるのだった。
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